イハラ トモアキ    IHARA Tomoaki
   井原 奉明
   所属
国際学部 英語コミュニケーション学科
 
文学研究科 英米文学専攻 博士前期課程
 
文学研究科 文学言語学専攻 博士後期課程
   職種
教授
言語種別 日本語
発行・発表の年月 2009/04
形態種別 大学・研究所等紀要
査読 査読あり
標題 「もの」と「こと」、「純粋なこと」
執筆形態 単著
掲載誌名 学苑 英語コミュニケーション紀要
出版社・発行元 昭和女子大学近代文化研究所
巻・号・頁 (822),103-113頁
概要 「もの」と「こと」を<存在物>と<存在それ自体>、<志向対象>と<志向性>という対比として理解する。「こと」については、言語によって記述され得る「事実」と言語化し得ない「純粋なこと」に分ける。「もの」に対しては、それを様態・性状・性質等の統一体とみなし、様態・性状・性質と分けられたものを「対象」と呼ぶ。
私たちが知覚する現実世界は、「事実」と「もの」の世界である。そして「もの」は「対象」から成るとみなされる。「事実」も「もの」も、志向性によって把握され、対象化された存在である。それに対し、「純粋なこと」は決して志向対象とならない存在であり、純粋な志向性と定義される。
「純粋なこと」は、未分化・未分節の原・状態であり、それがあらゆる「もの」を生み出す場所でもある。「純粋なこと」は意識化された瞬間、分節され、言語化され、「もの」や「事実」が把握される。このような「純粋なこと」は、知覚によって把握することができず、「事実」や「もの」が掬いきれなかった存在として感じ取られるだけである。こういった存在は、プロティノスや老子、華厳経等によっても表わされており、「純粋なこと」は彼らの言う根源的な存在と同じような存在だと考えられる。
「純粋なこと」は未分化・未分節であるが故に、一切の分節線がない<連続>であると考えられる。絶対的に<連続>するが故に、それ以外の対象化された<非連続的>な存在、つまり「事実」や「もの」、「対象」を根底において結びつけている。
「私」や「今」も「もの」として考えれば非連続であり、連続していない。しかしそれは日常意識とも異なれば、合理的思考とも相容れない。「もの」の同一性が保証されるのは「純粋なこと」によって連続しているからであり、「私」や「今」の連続性は、まさに「純粋なこと」を「私」や「今」とみなしているからであると論じた。
ISSN 1348-0103